奈良時代から明治初期に⾄るまで、⼤阪府南⻄部⼀帯は「和泉国(いずみのくに)」と呼ばれていました。「泉北」は、この「和泉国」の北側を指す呼び名です。⼭で区切られ、⾕筋に沿ってつながっていた暮らしは、ニュータウン開発に伴い敷かれた泉北⾼速鉄道によって変化し、深井駅から和泉中央駅までの沿線が「泉北」というエリアとなっていきました。
そんな「泉北」には、現在⼤きく分けて2 つの暮らしがあります。昔から、⾃然豊かな⾕あいの村々で営まれてきた農的暮らし。そして1967 年に、丘を切り開いてつくられたニュータウンでの街的暮らしです。
この2 つは、できる限り多くの緑地や農地を残した都市計画によって共存を果たしました。結果、ニュータウンのまちびらきから50 年が経った今では、⾃然と街の両⽅の良さを楽しめる独⾃の環境が⽣まれています。
大阪府の泉北丘陵住宅地区開発事業によって計画され、入居開始のまちびらきは1967年(昭和42年)12月、開発面積は約1,557ha(堺市:1,511ha、和泉市:46ha)、計画戸数は約54,000戸(堺市:53,500戸、和泉市:500戸)、計画人口は約18万人。2018年(平成30年)12月時点で、約56,500世帯、約121,700人が居住しています。
しかし、高齢化率は33.2%と、今後75歳以上の後期高齢者が増加していく中で、どうまちを持続的にしていくか課題になっています。
まちに必要な機能を
自分たちで作ってきたまち
それが「泉北ニュータウン」
丘を切り開いてつくられたニュータウンだからこそ、先人たちはまちの文化を自ら築いてきました。その一例を紹介します。
エスコープ大阪さんは1970年に泉北ニュータウンで生まれました。当時は高度経済成長期の真っ只中。経済効率が優先され、国は農薬や化学肥料多用の近代農業を政策としてすすめ、一方で食品にまつわる問題や公害問題、物価高騰が社会問題となっていました。そんな時代背景のなかで、「自分たちの暮らしを守るために自ら動こう」と集まった主婦たちがつくった生協です。
たとえば、当時はまだ個人配達という制度はありませんでした。「専任当番」と呼ばれる組合員が品物を預かったり届けたりすることによって、在宅していない人も生協の共同購入ができる新しいしくみでした。
そして、地域に必要なサービスを組合員自らが担い、店舗・個人配達へと進展し、後に自らの雇用を生み出した仕組みがあります。各地域で展開されたストックポイント活動は、生協を地域に拡げました。
泉北コミュニティさんは、1971年4月に創刊号を出されました。4月1日創刊なんだそうですが、泉北ニュータウンの〝大動脈〞として、泉北高速鉄道が泉ケ丘駅まで開通。この日、本紙が「泉北こんにちは」のタイトルで〝うぶ声〞をあげました。
開発初期の泉北ニュータウンで、小さなB5判8ページからスタートし、ニュータウンの入居増加とともに部数やページ数、発行回数を徐々に増やし、配布エリアも金剛・狭山地区、泉北ニュータウン周辺部へと広げてきました。紙面スタイルもA4判からタブロイド判カラー導入(現在)へ時代の変化とともし進化されてこまれました。
創刊当初から比べると、ページ数や紙面スタイルは変わっても〝地域に密着した紙面づくり〞の姿勢は変えられていません。編集長は、当初新しいまちには新しい文化が必要、そのためには情報媒体が必要だ!と立ち上がった今も、変わらない地域に愛されるメディアです。
この様に、ニュータウンの先輩たちも、その時代に必要な仕組みを形作ってこられました。そして、2020年1月新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、お互いさんの支え合いも変化が求められるようになりました。
withコロナ時代の泉北ニュータウンに必要な機能は、何なのか? 考えて、試して、実行して、改善してというチャレンジを生み出す「実験室」が必要で、さまざまな属性や個性を持つ人同士が力を合わせて形にしていくことが必要と考えています。
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